【29日火曜 6年生の平和教育 爆心地から2キロ以内は全滅と言われた。私はその中にいた】2
- 公開日
- 2024/10/29
- 更新日
- 2024/10/29
五常小の日常
爆心地2キロを示す赤い円内は全滅と言われたが、私はそのなかにいた。
12歳で亡くなった佐々木禎子さんは、同じ町内だ。
4歳の時被爆したが,それまで戦争の歌を歌って遊んでいた。
1から10まで数える日露戦争の数え歌がある。
日本は,戦争に強い国だと思っていたが、実はそのときすでに負け戦ばかりだった。
父に赤紙がきた(召集令状)。4人の子どもがいた上に、5人目がお腹にいた。
父は,仕方なく戦争に行く、しかし国からの援助は全然ない。
食料不足で、毎日ひもじい思いをしていた。
B29が広島に飛来してくるようになっていたある朝。(8/6)
朝、突然の爆風、一瞬で家屋の下敷きになった。
よそにも生き埋めはあっただろうが,誰も助けに来ない。
我が家は,幸い天井が斜めに落ち、空間ができていたため生き延びた。
ガレキから抜け出てみると,雲ひとつないお天気。
まず、兄が這い出た、母が押し出し、兄が引き上げた。
被爆した人は、服を着ていない,爪から先に皮膚がが垂れ下がり、
水をくれ,水をくれと。でもどうにもできない。
死体がごろごろ転がっている。
そんな生き地獄をこの目で見た。
火が来る。
母は,5人子どものうち、ヒデコとヨウコは竹藪へ逃げろと命じた。
(上段の絵が,姉のヒデコと私ヨウコ)
家族がバラバラになりそうでこわかった。
そしてかろうじて生き残った。
出征していない父の実家(北部)に身を寄せた。
生き延びたが,その後はイジメ、差別にあった。
近所の子からは,病気でも無いのに、「うつる、うつる」
「ピカドンが来た〜逃げろ〜」と言われ辛い思いをした。
母は,被爆したことを人に言わない方が良いと言った。
今広島はキレイな街になっているが、
もっと被爆の本当の姿を見てもらった方が良いとは思う。
枚方市に被爆者は約50人いるが、元気な人は少ない。79年経っている。
84歳、生かされていると思っている。
もっと原爆の被爆のことを話すようにという天の意志。
甲状腺異常が見つかって、ずっと薬を飲んでいる。
薬のおかげでやっとのことで生きている。
広島の市電は,いつも満員だった。
満員電車の外側の人は即死、中側の人は助かった人もいる。
南側に逃げて黒い雨(放射線)を受けている。
幸い,広島北部に逃げたのは,たまたま父の実家があったから。
母の実家は,もう無かった。だから北に逃げるしか無かった。
生き残ったのは、いくつもの幸運が積み重なったもの、
奇跡としか言いようがない。
もう少し早く降伏していたら原爆を落とされることも無かったかもしれない。
今も戦争が継続中だが、なぜこんな愚かなことを行うのか。
世界が、核兵器の無い平和な世界になってほしい。
当時は,本当のことを言わずに、戦争を続けていた。
戦艦大和の乗組員と知り合った。
艦内は恵まれた環境にあり、毎日,本ばかり読みお腹いっぱい食べていたという。
艦上から、広島の原爆をみたらしい。
皆さんが背負って立つ日本はこれからどうなるか。
皆さんで,平和な世界を作ってほしい。
自分さえ良ければ、という考えは戦争になる。
話し合いで解決することが大切だ。