最新更新日:2024/11/25 | |
本日:43
昨日:157 総数:261175 |
【30日水曜 皆で協力し楽しく学びを深めよう。修学旅行!】16
それでは、新幹線ホームに出発!
【30日水曜 皆で協力し楽しく学びを深めよう。修学旅行!】15
トイレ休憩が終わって、移動直前の注意事項。
【30日水曜 皆で協力し楽しく学びを深めよう。修学旅行!】14
新幹線に乗る前の注意事項です。
ここで出発移動までの間、トイレ休憩を行います。 荷物を本人に返して、トイレにいきましょう。 【30日水曜 皆で協力し楽しく学びを深めよう。修学旅行!】13
駅構内に入ります。元気ですね。
【30日水曜 皆で協力し楽しく学びを深めよう。修学旅行!】12
もう一台のバスです。
【30日水曜 皆で協力し楽しく学びを深めよう。修学旅行!】11
荷物は、自分のではなく、一人が一つ持つようにしています。
【30日水曜 皆で協力し楽しく学びを深めよう。修学旅行!】10
新大阪駅に到着です!
【30日水曜 皆で協力し楽しく学びを深めよう。修学旅行!】9
まもなくバスが出発します!
まだ7時だよお〜〜というくらいテンションが高くなっています。 大丈夫かなあ。。。 (ま、その方が疲れて早く寝てくれるというメリットも。。。) 【30日水曜 皆で協力し楽しく学びを深めよう。修学旅行!】8
どんどん晴れ間が出て来ましたね。
【30日水曜 皆で協力し楽しく学びを深めよう。修学旅行!】7【30日水曜 皆で協力し楽しく学びを深めよう。修学旅行!】6
力強く歩き出しました。
【30日水曜 皆で協力し楽しく学びを深めよう。修学旅行!】5
司会が、出発式をしめました。
さあ、出発します! 【30日水曜 皆で協力し楽しく学びを深めよう。修学旅行!】4
随行の先生,添乗員さん,カメラマンさんの紹介。
(5年生の先生も,,,) 修学旅行,広島での平和祈念セレモニーのために, 「ヒロシマの有る国で」 音楽の特別授業をしていただいた大先輩の先生も 見送りに来てくださいました。(涙) この大先生は,本校創設時の児童でもあります。 最後に6年の先生から。 これだけは心においてください。 この修学旅行は、関係の先生やそのほか様々な方々、 何よりお家の方々の支援があって今日を迎えられている。 感謝の心を胸において、二日間を過ごしていきましょう。 【30日水曜 皆で協力し楽しく学びを深めよう。修学旅行!】3
司会の二人が進行します。
この修学旅行,皆で協力し楽しく学びを深めていきましょう。 【30日水曜 皆で協力し楽しく学びを深めよう。修学旅行!】2
出席確認が整いました。
これから出発式です。 【30日水曜 皆で協力し楽しく学びを深めよう。修学旅行!】
児童が集合を始めました。
運動場は,まだずいぶんと濡れていますが, 6年生の熱気で蒸発しそうです。 【30日水曜 行くぞ,修学旅行!】
朝方までの雨がすっかり上がって,これから晴れに向かう予報です。
明日も晴れ予報! 持ってますねえ〜〜、6年生! 【29日火曜 6年生の平和教育 爆心地から2キロ以内は全滅と言われた。私はその中にいた】3
ここからは児童の質問コーナー。たくさん手が挙がりました。
原爆が落ちた時はどういう風景,匂いはどうでしたか? ー気絶していたが、その後死体がごろごろ転がっていた。 土ぼこりと血のにおい、なんとも言えない。 被爆した時どう思っていましたか? ー逃げるので必死。食べ物もない。 バラバラになった家族を名前を呼びながら,お互いを探していた。 水を飲みに川に多くの被爆者が入るが,そのまま川で息絶える。 そのまま亡くなる人が多かった。 逃げる時は,どんな生活でしたか? ーたべるものがなく、毎日生きるのにせいいっぱい。 行く道の周辺の住民に,子ども1人ずつがバラバラに世話になった。 夕食は、重湯だった。。。その家の人も、 満足に食べられたわけではないので,しょうがなかった。 原爆後も、B29が飛来していた。 見つかったら,また爆弾を落とされるぞと噂が立ち,身を隠していた。 【29日火曜 6年生の平和教育 爆心地から2キロ以内は全滅と言われた。私はその中にいた】2
爆心地2キロを示す赤い円内は全滅と言われたが、私はそのなかにいた。
12歳で亡くなった佐々木禎子さんは、同じ町内だ。 4歳の時被爆したが,それまで戦争の歌を歌って遊んでいた。 1から10まで数える日露戦争の数え歌がある。 日本は,戦争に強い国だと思っていたが、実はそのときすでに負け戦ばかりだった。 父に赤紙がきた(召集令状)。4人の子どもがいた上に、5人目がお腹にいた。 父は,仕方なく戦争に行く、しかし国からの援助は全然ない。 食料不足で、毎日ひもじい思いをしていた。 B29が広島に飛来してくるようになっていたある朝。(8/6) 朝、突然の爆風、一瞬で家屋の下敷きになった。 よそにも生き埋めはあっただろうが,誰も助けに来ない。 我が家は,幸い天井が斜めに落ち、空間ができていたため生き延びた。 ガレキから抜け出てみると,雲ひとつないお天気。 まず、兄が這い出た、母が押し出し、兄が引き上げた。 被爆した人は、服を着ていない,爪から先に皮膚がが垂れ下がり、 水をくれ,水をくれと。でもどうにもできない。 死体がごろごろ転がっている。 そんな生き地獄をこの目で見た。 火が来る。 母は,5人子どものうち、ヒデコとヨウコは竹藪へ逃げろと命じた。 (上段の絵が,姉のヒデコと私ヨウコ) 家族がバラバラになりそうでこわかった。 そしてかろうじて生き残った。 出征していない父の実家(北部)に身を寄せた。 生き延びたが,その後はイジメ、差別にあった。 近所の子からは,病気でも無いのに、「うつる、うつる」 「ピカドンが来た〜逃げろ〜」と言われ辛い思いをした。 母は,被爆したことを人に言わない方が良いと言った。 今広島はキレイな街になっているが、 もっと被爆の本当の姿を見てもらった方が良いとは思う。 枚方市に被爆者は約50人いるが、元気な人は少ない。79年経っている。 84歳、生かされていると思っている。 もっと原爆の被爆のことを話すようにという天の意志。 甲状腺異常が見つかって、ずっと薬を飲んでいる。 薬のおかげでやっとのことで生きている。 広島の市電は,いつも満員だった。 満員電車の外側の人は即死、中側の人は助かった人もいる。 南側に逃げて黒い雨(放射線)を受けている。 幸い,広島北部に逃げたのは,たまたま父の実家があったから。 母の実家は,もう無かった。だから北に逃げるしか無かった。 生き残ったのは、いくつもの幸運が積み重なったもの、 奇跡としか言いようがない。 もう少し早く降伏していたら原爆を落とされることも無かったかもしれない。 今も戦争が継続中だが、なぜこんな愚かなことを行うのか。 世界が、核兵器の無い平和な世界になってほしい。 当時は,本当のことを言わずに、戦争を続けていた。 戦艦大和の乗組員と知り合った。 艦内は恵まれた環境にあり、毎日,本ばかり読みお腹いっぱい食べていたという。 艦上から、広島の原爆をみたらしい。 皆さんが背負って立つ日本はこれからどうなるか。 皆さんで,平和な世界を作ってほしい。 自分さえ良ければ、という考えは戦争になる。 話し合いで解決することが大切だ。 【29日火曜 6年生の平和教育 爆心地から2キロ以内は全滅と言われた。私はその中にいた】
明日の広島訪問を控え,枚方市内で唯一被爆者講話をしてくださる,
語り部の森容香先生をお招きしました。 これから,そのお話を聞き取りレポートします。 |
枚方市立五常小学校
〒573-0084 住所:大阪府枚方市香里ケ丘6-9 TEL:050-7102-9020 FAX:072-854-0441 |