学校日記

【被曝から80年 長崎を最後の被爆地に】

公開日
2025/08/10
更新日
2025/08/10

校長のおはなし

8/6の広島に続いて、長崎平和記念の日です。(写真はNHKより)

校長は幼い頃の6年間長崎に住んでおりましたので、

平和公園、平和祈念像のことはよく身近に知っています。

石破総理は、あいさつで以下のように述べられました。

総理は、悲惨な戦争で多くの命が奪われた各地を訪れ、今日長崎にいるとし、

(硫黄島、沖縄ひめゆり記念館、広島)

先ほど、80年の時空を超え二口揃ったアンジェラスの鐘が、

ここ平和公園の長崎の鐘とともに、かつてと同じ音色を奏でました。

ねがわくば、この浦上をして世界最後の原子野たらしめたまえ。

長崎医科大学で被爆された故・永井隆博士が残された言葉であります。

長崎と広島で起きた惨禍を二度と繰り返してはなりません。

天を指す右手は原爆を示し、水平に伸ばした左手で平和を祈り、
静かに閉じた瞼に犠牲者への追悼の想いが込められた、
この平和祈念像の前で、今改めてお誓い申し上げます。

長崎市鈴木市長の平和宣言では、このような一節がありました。

1982年、国連本部で被爆者として初めて演説した故・山口仙二さんは、
当時の惨状をこう語っています。

「私の周りには目の玉が飛び出したり、木ギレやガラスがつきささった人、
首が半分切れた赤ん坊を抱きしめ泣き狂っている
若いお母さん右にも左にも石ころのように死体がころがっていました」

そして、演説の最後に、自らの傷をさらけ出しながら、世界に向けて力強く訴えました。
「私の顔や手をよく見てください。世界の人々そしてこれから生まれてくる
子供たちに私たち被爆者のような核兵器による死と苦しみを
例え一人たりとも許してはならないのであります」

ノー・モア・ヒロシマ 
ノー・モア・ナガサキ 
ノー・モア・ウォー 
ノー・モア・ヒバクシャ

この心の底からの叫びは、被爆者の思いの結晶そのものです。
証言の力で世界を動かしてきた、被爆者たちの揺るがぬ信念、
そして、その行動が評価され、昨年、日本被団協がノーベル平和賞を受賞しました。
日本被団協が結成されたのは、1956年。心と体に深い傷を負い、
差別や困窮にもがき苦しむ中、
「自らを救うとともに、私たちの体験をとおして人類の危機を救おう」
という結成宣言をもって、長崎で立ち上がりました。